露助には武力あるのみ。話し合いなど無駄
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http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/index.htm

<日露関係1800年代>
1861(文久元年) ロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余滞留した。
1855(安政二年) 松前藩、北蝦夷地久春古丹のロシア人陣営を焼く
1854(安政元年) 日米和親条約附録(下田条約)締結。蘭、露とも締結
1853(嘉永六年) ロシア使節・プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に入港。国書受取要求
1831(天保二年) ロシア船が蝦夷に侵入、役人と交戦
1806(文化3年) 翌年にかけて、レザノフの部下フヴォストフら、蝦夷地北辺を襲撃(文化露寇★、フヴォストフ事件)。

<対馬侵略事件(ポサトニック号事件)(1861)> wiki
■4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は
 警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名(吉野数之助)は舌を
 噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、
 数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。

■7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、
 イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。9月19日ポサドニック号は対馬から退去

<文化露寇(1806)>
■樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を
 司令官に、弘前藩、南部藩、庄内藩、久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など
 蝦夷地の要所の警護にあたった

■樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。
 13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、
 魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。
 船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された