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その後処理の遅れ−すなわちチッソ社が水俣病と有機水銀の因果関係を認めず排水を垂れ流し続け無駄に犠牲者を増やした上、
株主総会で暴力団雇って遺族やカメラマンに暴行加えたのは紛れもない江頭豊だ。
その光景をつぶさに見た当時の警察庁長官後藤田正晴が、後に雅子がお妃候補に挙がった際
「皇居に水俣の筵旗が立つ」と言って反対したのは有名な話。

時系列的には
江頭豊
1962年 新日本窒素肥料(後のチッソ)専務取締役として派遣。
1964年12月、新日本窒素取締役社長に就任
1970年、1971年に開かれたチッソ定時株主総会は一株運動との対決で大きな混乱を生じた(上記暴行事件がこれ)
1971年7月 社長を退任するも会長に就任

水俣病
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。
(中略)
この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。

つまり江頭がチッソに送り込まれて以降も6年間は工場は稼働していた。もろ張本人じゃねえか。